ルルドの泉に行ってきました
朝から人が集まって、カトリックなので神父さんやその関係者がたくさんいて、すごい人だかりができていました。
ルルドの泉には、湧き出ている場所の近くに水道の蛇口みたいなものがあって、ボタン式で、それを押すと水が出てきます。
近くのお店には、ルルドやマリアのロゴや刻印が入った瓶やペットボトルが売られていて、ほとんどの場合、そのボトルやタンクに水をいれて持ち帰るようです。
私は、実際にその『奇跡の水』を飲んでみました。
飲んでみて感じたこと
ルルドの泉周辺には、たくさんの人が訪れます。
ほとんどは、高齢者と障がい者です。あとは、カトリック系の信者でしょう。
私のようなカトリック教徒でもない人間は、かなり少なそうです。
あたりを見渡すと目に入ったのは、障がい者の団体です。
きっと、そういう団体が、毎日どこからか集まってきて奇跡の水の癒しを求めて来るんでしょう。
彼らが水を飲んだからと言って、すべての障害や病気が一瞬で亡くなっていきなり車いすから立ち上がれることはないでしょう。
しかし、癒されることはできます。
癒しと破壊
世の中には、障害や病気、けが、心に重荷を背負っている人、家族の不幸・・・
いろいろな方がいらっしゃいます。
成功していない人、失敗して借金だらけ、旦那がギャンブル依存症、奥さんがうつ病、子供が統合失調症、交通事故で高次脳障害、下半身不随・・・
そんな人々がたくさんいます。
医者や福祉関係の仕事ではなく、私のよう独りでインターネットとパソコンだけで仕事をしていると、普段はまず接することはありませんが、世の中には苦しんでいる人が大勢います。
インターネットの向こう側には人がいます。
苦しんでいる人、心に重荷を背負っている人、どうしようもない状態で自殺を考えている人もいるでしょう。
そんな人の前で、自分が成功したからと言って、俺は勝ち組だ!とガッツポーズをとるようなことをしたり、うまくいかない人を馬鹿にしたり、社会的弱者を馬鹿にするようなこと、社畜は最悪、起業して金持ちになれ!
とあおる事は破壊行為ではないのか?
精神的破壊行為なのではないのか?
競争させるようなことを配信して、競わせて、9割以上の敗者と1割以下の勝者を生み出す、大量の敗者を生み出す・・・それは破壊行為ではないのか?
神からの啓示
私は、ルルドの泉にあるベンチに座り、泉の水を飲んでいました。
すると、目の前をたくさんの障がい者やヨボヨボの高齢者が通り過ぎました。
みんな泉の力、奇跡の力、癒しの力を求めてここにきているのです。
それを見て私は
障害を持っている方
心に重荷を背負っている方
病気、障害、家族の世話などで何らかの理由で働けない方
そういった大勢の人を癒す場所が必要なんだ、と感じました。
『稼ぎを自慢したり、優越感に浸ったり、高級品を見せびらかしたりするのではなくて、人を癒せる人になりなさい』と言われたような気がしました。
ルルドの泉に存在する『神秘の力』が私の潜在意識を通じて、私にメッセージをくれたのでしょう。
『もう、あなたは十分自分のために生きた、これからは人のために生きなさい、人の苦しみに寄り添える人間になりなさい』
そう、言われた気がしました。
それは、神からの啓示だったのかもしれません。
奇跡の水を飲んだことで、私の魂に、奇跡と癒しのエネルギーが宿ったのかもしれません。
それはわかりません。
ただ、広い地球の中で、なぜ私がここにいるのか・・・
それは私の思考が現実化しているからであり、この場所のエネルギーの周波数と私の周波数があっているからにほかなりません。
すべては必然です。
私は、必然的に、この時間、徐の年齢、このタイミングでルルドの泉にある奇跡のエネルギーに導かれていたのです。
私は、水を飲んだ後にルルドにある教会に座り神様にお祈りしました。
『心に重荷を抱えている人、体に痛みを抱えている人、すべての苦しみ、痛みを持たれている方の苦しみが少しでも癒されるように』
私はキリスト教徒ではありませんが、神様はきっと聞いてくださるはずです。
社会起業家という生き方
稼いだ、稼いだ、俺は年収数千万円だ!そのノウハウを教えます!
などと言っているうちは、大量の敗者を生み出す、破壊者です。
それは子供のやることで、独りよがりの自慰行為ともいえるでしょう。
自分だけ気持ちよくなっているだけなのです。
20代、30代ならそれでもいいかもしれません。世間はまだ笑って許してくれます。
しかし、私は、もう嫌になりました、そういう人間や行動が。
若い時はそれでもいいかと思いますが、最近の私はスピリチュアルの学びを通じてそんな生き方に嫌気がさしてきました。
私は、ルルドの泉で飲んだ水の影響か、神的な力が働いたのかそれはわかりませんが、社会的に役に立つ仕事、をすべきだ、それ以外の事をしてはいけない、また、破壊行為を好む人間と付き合うのをやめよう、と決断したのでした。